Contemporary Art

極小美術館

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特集・極小美術館設立

極めて小さい美術館の挑戦

ミチクサ vol.65 池田町草深
(大垣ケーブルテレビ ケーブルファン2015年11月号から)

 池田山の麓にある、極小美術館は6年前、「極めて小さい」と名付けた美術館は、今や現代美術の若手作家たちが巣立つ場となりつつある。自身も作家である館長の長澤知明さんが、この美術館にかける熱い思いとは。

「これは、何を意味しているのですか」。極小美術館に展示されている作品の前で、必ず何人かはそういう言葉を口にする。館長の長澤知明さんはこう答える。「音楽には言葉はないでしょう。同じですよ。言葉にしなくても、ただ、好きなように感じればいいんです」。

 3階建ての洒落た外観。緑濃い池田山をバックに、白い建物の美しさが映える。2009年に小さな美術館がオープンした。「自虐的な意味も込めて、極小美術館という名前にしたんです。でも、最近では名前が売れてきて、自虐じゃなくなってきた」。長澤さんは笑う。

 垣市生まれの長澤さんは、東京芸術大学大学院を修了し、彫刻家として東京で活躍した。数々の賞を受賞し、時代の先端をいく芸術家として、岡本太郎と共に、若い女性向けの雑誌に紹介されたこともある。「東京にいた頃の僕は血気盛んで、とんがっていましたね」。

 そんな生活が一変したのは、30代の頃。恩師の推薦で、デザイン科の教師を探していた多治見工業高校で専任講師として教えることになる。平日は岐阜、週末は東京という生活をしていたが、結局は大垣へ戻ってきた。
 その後、加納高校美術科に異動。「先生になっても、彫刻家としての創作活動はずっと続けていました」。名古屋の桜画廊で開いた個展が、朝日新聞社が主催する1986年の「美術ベスト5」に選ばれたこともある。現役の教師としては、ただ一人だった。グラウンドの隅で自身の作品を制作し、見せることで学んでもらうなど、ユニークな教え方をした。進学率は上がり、毎年、国公立や有名美術大学へ生徒たちを入れる。

 が、たくさんの教え子たちの中で、作家として活動できたのは、ほんの数名だけ。美術の世界で生きていくのは大変だ。東京には画廊はいくつもあるが、個展を開くには、多額の費用がかかる。なけなしの金をはたいても、お客の数はたかが知れている。かといって地元に戻っても、作品を発表する場がなく、「刀折れ、矢尽きてしまう」。結局はやめてしまうのだ。才能があるのに、埋もれてしまう教え子たちを、長年見てきた。
 どうすれば、彼らの力になれるのか。地方からでも、優れた若手作家を世に出すことはできないか。発表の機会を設けられないかー長澤さんのなかで、美術館という構想が芽生え始めていた。

 ょうどその頃、縁あって長浜市の北ビワコホテル・グラツィエ・ギャラリーの企画展の全てをまかされる。主に現代美術を中心に、さまざまな作家の作品を展示した。ホテルには、老若男女、多種多様な人たちが集まる。挑戦だった。作品や展示方法などに意見や批判もたくさんあったが、5年間で34回もの企画展を開く。「美術に興味のない人たちに、現代美術は難しいものじゃない、見る人の感性で自由に楽しめる、面白いものなんだと知らせることができた」。

 浜でできるなら、ここで美術館を開いても、やっていける。自信を持った長澤さんは定年退職後、いよいよ本格的に美術館開館に向けて進み出す。
 だが、物件探しは難航した。街中は借りるだけでも費用がかかり、なかなか条件に合うものがない。やっと見つけた物件は、池田山の麓にあった築15年の未使用の倉庫。「天井の高さ、面積、予算、場所…。いろいろ考えて決めました」。

 小美術館には、長澤さんなりのこだわりが詰まっている。運営費は全て自費。入館料はとらない。作品は売らない。買い手との仲介もしない。
 作家の経済的な負担は、作品にかかる保険の一部のみ。チラシには美術館の館長や学芸員、評論家たちに、作家や作品の紹介記事を書いてもらうが、原稿料も美術館持ちだ。「専門家に執筆してもらうことで、社会性が伴う。本人にも大きな励みになるし、来館者にも伝わりやすいから」。

 ただ、無名の若手作家だけでは人を呼べないため、キャリアのある作家と組み合わせて、展示する。それとは別に、2年に1度は若手、中堅、巨匠の作家の作品を取り混ぜて、グループ展を開く。「他人の目にさらさないと、次のステップにはいけない。若い作家は、まずグループ展に出して、プロの評価をもらう。そこから個展へと進むまでには、早くても3、4年はかかる」と長澤さんはいう。

「スポンサーなしの自費で美術館をやっているわけですから、誰も考えたことのないものをやっている人たち、新しい感覚で表現しようとする若者たちの背中を押したい」。長澤さんの所には、若手作家たちから年間80点ほどの作品写真が送られてくる。そこから出展を依頼することもあれば、各地の美術館や展覧会場にも、積極的に足を運び、「これは」という人を見つけることもある。「学生や大学院生ではなく、自分で稼いで、命をかけている、そういう若い作家をさがしているんです」。
 オープンから今年で6年。作家を志しても、コレクターがつき、自身の作品で得た収入で生きていける作家は10年に1人できればいいといわれている。そんな中で、既に5人もの若い作家を世に送り出した。

 小美術館では企画展を開く際、必ずオープニングパーティーを開く。これも、長澤さんのアイデアだ。「東京では頻繁に開かれていて、様々な交流が生まれます。でも、地方にはそんな機会がないでしょう。滅多に会えない作家や美術館関係者、批評家たちと話す若い子たちの目がもうね、キラキラしているんですよ。それが本当に嬉しい」。

 役の彫刻家、長澤さんは美術館運営の傍ら、作品を作り続け、コンペにも出品し、若手たちと競う。そのことが、自身の作品に刺激を与え、ものを見る眼を磨いていく。現代美術の世界では、60代は老人といわれるそうだが、そういう言葉は当てはまらない。「現代美術とは、今を生きているというドキュメント。今しか表現できないもの、同時代性という要素を持っているかどうかです」。熱く語る姿は、若者たち同様、目が輝いている。

「志さえあれば、地方でも続けられる。発信できるんです」。長澤さんは手ごたえを掴んだ。極小美術館は若手が育つための場としてだけでなく、一般の美術ファンにも受け入れられつつある。だから、これからも「小さい美術館でも、質のいいもの」を求めていく。
 池田山の麓の小さな美術館には、志を持った作家たちが集う、限りなく熱く、大きな世界が広がっている。

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