Contemporary Art
極小美術館
Arakawa
Syusaku
荒川
修作
2009.11/28(sat)~ 2010.3/31(wed)
No.01
観覧申し込みは090-5853-3766まで。入場は無料荒川修作展に寄せて
ここに一枚の新聞がある。といっても現実にあるわけではなく、頭の中にある。約半世紀前である。朝日新聞に4人の若手作家が記事になった。
9月の美術展に向けての制作風景が写真になった。しかも美術文化欄ではなく、社会面であった。当時でも考えられないことであるが、新聞1頁大を4等分され、大きな写真が掲載された。
荒川修作、吉村益信、工藤哲巳、篠田守男であった。荒川、吉村は読売アンデパンダンやネオ・ダダ・オルガナイザーズの結成前であったと思われる。工藤はラテックスを使った「脱皮」シリーズ。荒川は棺桶に生コンを詰めた異様な彫刻を作っていた。私は画廊で制作する作家ということで取り上げられた。
いずれにしても従来の作家達のアトリエで制作するという常識を外れていたことが社会面に大きく扱われた理由であろう。
殆んど皆無名の若手、まだ作家とも呼ばれない連中であった。
昭和36年8月25日付朝日新聞夕刊
1950年代はじめ、日本人作家のアメリカン・ドリームというものがあった。1950年に渡米、ニューヨークで活躍した岡田謙三、川端龍子等は第一次渡航組で、彼らは柔らく優雅な色感を持ち、ユーゲニズム(幽玄主義)として高く評価された。
この第2次として渡米したのが荒川修作、河原温、靉嘔、草間彌生等であった。この第2次渡米組は日本を表現するのではなく、それぞれ個のアート概念を持って発表し始めた。丁度コンセプチュアル・アートやポップ・アートの世界の美術の流れと相まってメキメキ売り出していったのである。
私は環境によって人間は支配される説を強く肯定するものであって、DNAに対して80%は環境によってつくられると信じている。荒川にとってはあの時代のアメリカの環境と詩人マドリン・ギンズが大きく作用していると思われる。
1980年から90年にかけて名古屋は日本の現代美術を牽引した時期があった。きら星のごとくコンテンポラリーを扱う画廊がひしめき、それを支えるコレクターが群がり、公立美術館の開館とも相まって質の高い展覧会が次々と開かれた。
単なる画廊空間に飽き足らず、街の中心部より北に外れた工場の一角に、美術館スケールの企画力によるアートシーンを実現させたのが「ICA Nagoya」で、ギャラリーたかぎのプロジェクトであった。
そのギャラリーたかぎの開廊時より中心となって支えたのが澤嶋享子(たかこ)だった。
荒川修作展を日本各地の美術館で開催する原動力となり、養老天命反転地を見届けるように52歳で世を去った。彼女のふるさとがこの極小美術館のすぐ近くにあり、ふとした縁で荒川修作展が開催されることになった。
これを機会にアラカワアートをじっくりと見ていただきたい。
Chain of command 1972
12 O'CLOCK (Acrylics on Canvas 66 X 98 inches)
荒川修作と澤嶋亨子
1990年東高現代美術館で(撮影・安斎重男 CANZAÏ)
2009年12月15日付朝日新聞愛知総合面
- 【略歴】
- 1936
- 名古屋市に生まれる
- 1961
- 渡米し、以後ニューヨークに定住
- 1994
- 岡山県奈義町に磯崎新とのコラボレーションによる「偏在の場・奈義の龍安寺・建築する身体」
- 1995
- 岐阜県に「養老天命反転地」
- 1997
- グッケンハイム美術館で日本人としては初の個展を開催
- 2008
- ニューヨーク、イースト・ハンプトンに「バイオスクリーブ・ハウス」などを実現
- ※開催時点
【澤嶋コレクション】
1980年から90年にかけて名古屋は日本の現代美術を牽引した時期があった。きら星のごとくコンテンポラリーを扱う画廊がひしめき、それを支えるコレクターが群がり、公立美術館の開館とも相まって質の高い展覧会が次々と開かれた。
単なる画廊空間に飽き足らず、街の中心部より北に外れた工場の一角に、美術館スケールの企画力によるアートシーンを実現させたのが「ICA Nagoya」でのギャラリーたかぎのプロジェクトであった。
そのギャラリーたかぎの開廊時より中心となって支えたのが澤嶋享子(たかこ)だった。
荒川修作展を日本各地の美術館で開催する原動力となり、養老天命反転地を見届けるように52歳で世を去った。彼女のふるさとがこの極小美術館のすぐ近くにあり、ふとした縁で荒川修作展が開催されることになった。
これを機会にアラカワアートをじっくりと見ていただきたい。
89K - 田中敦子 SAWASHIMA Collection