Contemporary Art

極小美術館

2016.7/3(sun)~ 2016.9/25(sun)

espoir 18

観覧申し込みは090-5853-3766まで。入場は無料

内包された感覚 

柳原正樹 (京都国立近代美術館長)

 このごろ思うことなのだが、画家はなぜ絵を描くのだろうかと。愚問かも知れないが、作品の前に立つとき必ずと言っていいほど、その問いに立ち返るのである。
 たとえば、矢橋頌太郎の場合。頭部を真上から捉えた一風変わった作品を描く。頭部だけに焦点を当てて描き続ける作者も稀であろう。なぜ頭部なのかと、この画家に聞けば聞いたことになるのであろうが、それでは見る者としては面白味に欠ける。どこまでもイマジネーションを膨らませ、感覚を研ぎ澄ませながら、作品と対峙することが重要なのだ。特にこの画家のような不思議な世界を持つ絵画は、そうやって見るべきであろう。
 見る側の考えと、描く側の意図は、常に一致するとは限らないが、この画家はおそらく、自身の内面に潜む得体の知れない何物かを感じながら、それをいとおしみ、ごく個人的な思想を心象風景として表現しているのではないだろうか。
 画家にはそれぞれに視点というものがあり、目に見える事物をどう表現するかが重要なこととなる。つまりそれは、何を描き、そこに何を託したいかを意味する。矢橋が頭部を描くのは、その姿に他者と自分を象徴させながら、内面を見つめようとする精神世界に寄せる想いが深いからにほかならない。
 そして、なぜこれほどまでに真上からの俯瞰なのだろうか。画家としての独自のスタイルと言ってしまえばそうなのだが、そこにはこの画家の造形性と心理的な要素が見え隠れする。たとえば、その頭の形と髪の毛は、一見すると不気味だが、どこかユーモラスな一面も備えている。これもまた矢橋が内包する陰と陽のなせる技であろうか。さらに深読みするならば、頭部のみのためか人物の表情をうかがい知ることは出来ない。矢橋は人間の感情を出来るだけ排除するためにあえて顔を描かないのかも知れない。だが、その柔らかな髪の毛のウェーブ、つむじの形に、愛すべき人物の表情が描き込まれている。
 矢橋頌太郎という画家は、頭部という独特の画題を手に入れた。しかし、それはまだ初期の段階とも言えるのだ。自身の求めるものをその頭部に託すという、ひとつのスタイルを確立したものであり、それは画家として生きるための第一歩であろう。
 画家とは不憫(ふびん)なもので、一度スタイルが出来上がると、それに安住する作家も多いのだが、それでは作家とは言えない。常に何かを求めてこそ作家なのだ。その意味からすると矢橋もまた、今のスタイルに安住することは許されない。だがそれは、単に画題や画風を変えるということではなく、ごく自然に、そして必然的に変貌の時を迎えるということである。
矢橋はなぜ絵を描くのだろうか。そして、この画家は何を見つめ、どこへ向かおうとしているのだろうか。今、そんなことを思っている。
 ともあれ、この画家の今後の活動に期待している。そして、多くの人に矢橋頌太郎の魅力を知っていただきたいと願っている。

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view-01(2011年)

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view-02(2011年)

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view-03(2011年)

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view-16(2015年)

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view-17(2015年)

矢橋頌太郎展に寄せて 

梅原 猛 (哲学者)

 矢橋頌太郎は武蔵野美術大学在学中、うすぼんやりとしたさまざまな女性の姿を背景とする風景画を描いた。そこでは鳥が鳴き、獣が吠え、魚が遊ぶが、とうていこの世の風景とは思われない。おそらくあの世の風景であろう。私はこのような作品に人生の哀しみとイロニーを感じたのである。
ところが今回の作品はもっぱら人間の頭部がモチーフとなっている。「座る少女」「傾く少女」「向かい合う少女」などと題してさまざまな少女の頭部が描かれている。私は、人間の手の指を好んで描くすぐれた画家の友人をもっていたが、この作家のように人間のさまざまな頭部を好んで描く画家を知らない。
彼の作品をみると、人間の頭部というのは甚だ個性的であり、一つ一つの頭がそれぞれ独自の歌を歌っているように思われる。一つの頭が単独で歌うのが独唱であるとすれば、複数の頭によって歌われるのは合唱であるにちがいない。それぞれ異なる頭部の取り合わせによって奥行きの深い混声合唱が生まれる。頭が人間にとってもっとも大切な脳を擁する部分であるとすれば、頭が歌を歌うのは当然であろう。
おそらく神は、人間の生命を維持するために重要な役割を果たす頭部にそれぞれ興味深い個性を与えたのであろう。このような神のつくった世界にこれまで芸術家は誰も気づいていないのであろう。彼はその神業を詩人的な直感によって感受し、頭というものにさまざまな歌を歌わせる。
神を信じようが信じまいが、芸術家は結局、神あるいは自然のつくった世界を直感的に認識し、そのすばらしい世界を知ろうとしない人たちに伝える予言者であり伝道者なのである。
 私はこの春秋に富む作家に美の予言者及び伝道者を感じるのである。

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hungryfish(2008年)

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近く遠く(2009年)

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Cataract(2009年)

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purpur(2010年)

矢橋頌太郎

【略歴】
2007
3月 岐阜県立加納高校 卒業
2007
4月 武蔵野美術大学 造形学部 油絵学科 入学
2011
3月 武蔵野美術大学 造形学部 油絵学科 卒業
【展示略歴】
2010
1月 武蔵野美術大学OB展 (岐阜県立美術館)
2011
2月 武蔵野美術大学 卒業制作展 (武蔵野美術大学 学内)
2011
3月 五美術大学卒業制作展 (国立新美術館)
2012
9月 現代美術の新世代展で優秀賞受賞 選考・篠田守男筑波大学名誉教授、青木正弘前豊田市美術館副館長 他(極小美術館)
2013
9月 「リアリズムの深層」展 (極小美術館)
2014
7月 個展 (極小美術館)
2014
12月 個展「矢橋頌太郎」展 (ギャラリーうちやま)
2015
10月 富山トリエンナーレ2015 神通峡美術展で優秀賞受賞 選考・篠田守男筑波大学名誉教授、酒井忠康世田谷美術館館長、絹谷幸二東京芸術大学名誉教授
2015
11月 ミズマクおおがき 2015 StartingPoint〜 大垣の新進美術家たち (大垣市文化事業団主催 スイトピアセンター)
2016
1月 宇宙の連環として2016 (極小美術館)
※開催時点

梅原猛ご夫妻が来館されました。右は、作家・矢橋頌太郎

絵画って何? 矢橋頌太郎について 

篠田守男 (彫刻家・筑波大学名誉教授)

 ケサランパサラン、ウドンゲの花。昭和の初めである。3000年に一度花を咲かせるという。とてつもない幸せをもたらすという。逆転して不幸ももたらすともいう。80年も前のことである。植物なのか、生物なのか、その存在すらも子供の好奇心を満足させることなく、未解決のまま大人になってしまった。
 2010年「現代美術の新世代」展が大垣の極小美術館で開催され、20代の若い作家達が選ばれ、その審査員(青木正弘、篠田守男)の一人として立ち会うことになった。私は何かを判断するとき、直感(ほとんどは認識を伴わない)→直観(認識はするが判断を伴わず)→思考→分析にいたる。この段階で矢橋頌太郎の作品に興味を持った。私にとって冒頭のような幼児体験を入口にして興味を膨らましていったのである。一般的な具象と抽象に分析すれば矢橋の作品は具象でもなく抽象絵画でもない。強いて言えば唯物的絵画、又は純粋絵画ともいえるかもしれない。純粋絵画とは絵画以外の何者でもなく、表現すらも極力抑えて絵画という物体を存在させようと試みているのではないか。1970年代コンセプチュアル・アートのなかにキャンバスのフレームを表にして額縁に入れた作品があったが、絵画の構造をみせているにとどまって絵画の概念にまでは踏み込んでない。 ミッシェル・フーコーによれば絵画は二つの原理によって支配されてきた。造形表象 représentation platique と言語表象 représentation linguistique の分離。これが破棄されたのはクレーとカンディンスキーによると指摘する。更にマグリットの「これはパイプではない」Ceci n'est pas une pipe を例に造形と言語表象との融合を論じている。しかし日本では万葉の時代よりこの二つの概念は融合されており、絵画というメディアに含まれている。
 矢橋の絵画は言語表象をもつものではないが、それといって造形表象としての絵画表現をしているものでもない。人物を画いている以上具象絵画といわざるを得ないが、その対象として選ばれたものが頭髪のみというのうのは作家が具体的な対象を求めていない。うがったとらえ方をすれば具象をもって具象性を消そうとしている。矢橋の絵画は私の幼児体験(言語と事象の未発達期)を通して絵画という迷宮にいざなってくれたのである。このとき独断と偏見で、彼の絵画に優秀賞を推薦し、昨年の富山トリエンナーレ2015(神通峡美術展)展において審査員(酒井忠康・世田谷美術館館長、絹谷幸二・画家、篠田守男)の一人として優秀賞を推薦し見事に受賞を果たし、矢橋絵画は普遍性をもつものである。