Contemporary Art
極小美術館
篠田 守男Morio Shinoda
- 【略歴】
- 1931
- 東京都出身
- 1952
- 通産省勤務 大臣官房渉外課(〜54)、
工業技術院産業工芸試験場(54〜67) - 1953
- 青山学院大学文学部英米文学科中退
- 1963
- アート・インスティテュート・オブ・シカゴに留学(〜64)
- 1964
- 第15回秀作美術展招待 /東京
- 1964
- 第1回長岡現代美術館賞展招待 /長岡現代美術館・新潟
- 64、65
- 現代美術の動向展招待 /国立近代美術館京都分館
- 1965
- 第1回現代日本彫刻展 神奈川県立近代美術館賞受賞
- 1965
- 宇部市野外彫刻展招待 /宇部市野外彫刻美術館・山口
- 1965
- 第8回日本国際美術展 /東京都美術館
- 1965
- 現代日本の絵画と彫刻展選抜 /ニューヨーク近代美術館・アメリカ
- 1965
- 第1回ジャパン・アート・フェスティバル /ニューヨーク・アメリカ
- 1966
- 第33回ベニス・ビエンナーレ日本代表 /イタリア
- 1966
- 第9回高村光太郎賞受賞
- 1966
- ヒューストン・ファイン・アート・ミュージアム付属美術学校講師として渡米(〜67)
- 1966
- 第9回国際美術展招待 東京都美術館
- 1966
- 第2回ジャパン・アート・フェスティバル招待 /ヒューストン・アメリカ
- 1966
- グッゲンハイム美術館 国際彫刻展に招待 /ニューヨーク・アメリカ
- 1966
- メキシコ国立大学で個展開催
- 1966
- 大阪万国博に招待
- 1968
- カリフォルニア大学ロサンゼルス校客員教授(〜70)
- 1971
- サンフランシスコ100年祭展に招待
- 1973
- 第4回中原悌二郎賞優秀賞受賞
- 1973
- 第1回彫刻の森美術鑑賞大賞受賞
- 1974
- 第2回彫刻の森美術館賞優秀賞受賞
- 1976
- コロラド州立大学およびミネソタ大学客員教授として渡米(〜77)
- 199
- 筑波大学芸術学系教授(〜94)
- 1991
- 第4回朝倉文夫賞受賞
- 1994
- 長崎大学大学院専任教授(〜96)
- 1995
- 篠田守男 水力発電所展 /下山芸術の森発電所美術館・富山
- 2000
- 国際彫刻センター(ISC)優秀彫刻教育賞受賞 ※アジア人初受賞
- 2003
- 金沢美術工芸大学大学院専任教授(〜09)
- 2005
- 12人の挑戦 ― 大観から日比野まで /水戸芸術館現代美術ギャラリー・茨城
- 2005
- 様々な素材から生まれた彫刻 ― コレクションより /箱根彫刻の森美術館・神奈川
- 【著書】
- ■「快楽宣言」南天子画廊刊
- 【モニュメント】
-
■TC-4705 COSMOS(1966年制作) 東急田園都市線・たまプラーザー駅前
■TC-4706(1989年制作) IBM飯島ビル
■TC-5802 空中庭園(1989年制作) 西新宿・東京都庁 第2庁舎1Fメインフロア正面壁 - 【コレクション】
-
■ウィリアム・リーバーマン(メトロポリタン美術館)
■フレデリック・ワイズマンズ・コレクション(I.A.)
■ヒューストン警察本部庁舎ビルディング
■ヒューストン・ファインアーツ美術館
■ダラス・ニューマンマーカス・デパート
■ニューハウス(N.Y.)
■NYロックフェラー3世夫人(N.Y.)
■ルイジアナ美術館(デンマーク)
■アムフレッド・シュメラー(ドイツ)
■東京国立近代美術館
■神奈川県立近代美術館
■東京都現代美術館
■広島市現代美術館
■ふくやま美術館
■栃木県立美術館
■高松市美術館
■セゾン現代美術館
■彫刻の森美術館
■豊田市美術館
■徳島県立近代美術館
■札幌野外彫刻美術館
■旭川彫刻美術館 - 鋼鉄線の張力と圧力で金属塊を中空に固定させるTC(Tension and Compression)=「テンションとコンプレッション」シリーズで知られる金属彫刻は、奇妙で不思議な空間を創出。精緻な技術で素材を駆使し、新しい人工的空間を表現。現代都市の不安な相貌をとらえている。スケールの大きな作家として海外で注目され、ヒューストン美術学校、カリフォルニア州立大学などで教鞭をとる
《個展案内》
謎めく混成体ふたたび
―篠田守男の新作に寄せて
篠田守男(1931〜)は成分表示のきわめて困難な合成物である。
わたしは、いまだその詳細を充分に知らないままの「入門」前の身だが、こっそり覗きみると、作品も、作者も、いつまでも若く瑞々しい秘密は、きっとその得体の知れなさに隠されているのではないかとかねがね疑っていた。
昨春にKOKI ARTSで開かれた真島明子(1952〜)との二人展「BEYONDNESS」。
大いに期待して観にでかけた。しかし、真島の、解放系の周囲の空間を味方につける深呼吸しているような大作に圧倒され、精妙な篠田守男の世界は、閉じて、やや委縮して感じられた。正直不満がすこし残った。
そして今回の新作展である。
その独特の繊細さは、やはり個展でこそ際立つにちがいない。そこには見えない世界との糸が文字通り張りめぐらされているからである。
たとえば、新作のひとつ《シュヴァンクマイエルの不思議な世界》(2016)。まさしく「驚異の部屋」をアニメーションや実写で召還する、このヤン・シュヴァンクマイエル(1934〜)というプラハの異能の映像作家と、一見、クールで無表情な技術者を思わせる篠田守男の取り合わせは、意外な印象を最初にあたえるかもしれない。しかし、この0.45㎜の細いワイヤーが宙吊りする「空中楼閣」もまたひとつの幻視であり、危うく成立した蜃気楼ともいえよう。それは、見方を変えれば、三千世界をつなぐ「インドラの網」でもあるのだ。そこには肉体の気配が確かに、どこかに仕掛けられている。シュヴァンクマイエルの代表作のひとつ「ファウスト」(1994)で、木製人形の股間に大きな錐で穴をあければ、男であったはずの人形が女に変身するシーンがあった。篠田の作品にも、それに通じるようなサド的である同時にマゾ的な感覚が封印されているのだ。
篠田守男のエロスとテクネの混成体は、ふたたびわたしたちの身体感覚を疼かせ、視覚をまるごと刷新するだけでなく、まさしく全感覚的な未知の領域へと身も心もふたたび誘惑してくれるに違いない。
選択の芸術
われわれの芸術は選択より始まる。絵を描く、木や石を彫る、版を刷る。それぞれの技術を獲得したうえで造形に進む。しかしそのすべてが作品になるわけではない。むしろすべてが作品にならないことの方が多いのである。作家達の多くがこのプロセスをふんでいる。
効率のみで考えてみると、先ず作りたいものがあって、必要な技術を部分的にでも獲得する。これで相当な時間が短縮できる。
更にはすでにあるもの、別の目的で作られたものを選択する。これはマルセル・デュシャンのレディ・メイドであり、ピカソの「牛」、自転車のサドルにハンドルを装着したもの等がある。昔ニューヨークである絵描きが用意した新しいキャンバスにペットとして飼っていたオームが歩いて模様をつくった。これを出品して大論争になった。即ちオームがかいたので作品ではないとするものと、作家が無作為に出品したものではなく、選択というフィルターを通過しているという二論から後者におちつき作品として認められた事実がある。更には60年代の後半に入ってコンセプチュアル・アートの時代、知り合いであったロサンゼルスの作家ジョン・バルデッサリ「注文絵画パット・ネルソンの絵画」(1969年作)では自分で作品を撮りそのまま日曜画家に描かせたものである。ここにいたっては「芸術の一部としての選択」すら薄れてしまっている。
私は作品を効率良く作り、短時間で完成させることを良しとする。すでに頭の中にあるものを具体化するのであるからプロセスは早い方がよい。
しかし我が国では長く苦しむことに満足をおぼえる。いわばマゾヒスト的理論である。具体化の悩みより頭に中で組み立てるほど試練を必要とし、苦しみ、悩み、ジレンマする。これが制作上の肉体行為よりどれほどつらいかというと自由だからである。
これを論じはじめると芸術とは?という大テーゼに関わってくるので割愛せざるをえないので、ここでは書類の芸術の一部をなす「選択」に基点をおくことにする。
この度の展覧会では既に私自身が作りためてる部品を組み合わせて作っている。このときが私にとってひと時の快楽である。丁度、建築家コルビジェが積み木遊びをするように。中には数十年もたった部品が、この日を待ってたかのように生き生きとよみがえる。記憶の片隅にあった造形が生々しくまた刺々しく、攻撃的に甦ってくるのである。
(2016.4.8〜2016.4.29 ギャラリーうちやま)
私の芸術人生
通産省工業技術院の産業工芸試験所では、最初事務方だったが、毎月のコンペでよく入賞していたので、当時の剣持勇意匠部長から「事務では惜しい」と言われ意匠部に移り工業デザインをやるようになった。バックミンスター・フラーは三角錐をつないで巨大建築物を作ることを発明した人だが、1958年の講演会に出席し感動した。5年後にシカゴの美術学校に留学したとき、サウス・イリノイ大学の名誉教授だったフラーさんの事務所を訪れた。建築家の事務所というより法律事務所みたいで図面台もなかった。シカゴでは病院の院長さんのところに下宿し、教会にも通ったが、留学では大学時代に英米文学をやったことが役立った。(中略)日本の教育は「教える」がメインになっており、芸大でも先生と同じものを作っている。大学はもともと教えるのでなく、「育てる」が大事。筑波大に15年いたが、ポケモンの石原恒和とか明和電機の土佐信道が育っていった。僕と違うものをやっている。僕は糸だけで構造を作る作品をやっている。芸術は他人がやっていないものをやるものだ。科学はテクノロジーと理念の積み木なのに対し、芸術は個が築く摩天楼だともいえる。直感が創造者から概念につながる入口だと信ずる。概念が入ると直感の「感」が「観る」の直観になる。ここに思想が入り、メディアが入ってくる。メディアは美術、音楽、数学とひとさまざまだ。皆さんがインダストリーを目的としたときに、どのメディアをどう個性を保ちながら歩んでいくが大事。そのメディアでどういう技術、材料が要るのか、どういう考え方を持ち込むかを順番に考える。私は学生に自分でダイアグラムを作ってもらって指導するが、指導では「育てる」のパーセンテージを高くしている。私の作品はインターネットに多数出ているので見てください。
(文責・井芹)
私は1955年に初めて彫刻らしきものをつくりました。もともと美術を学んだことのない人間が作るのですから今から思えば美術といえるかどうか?しかしモダンアート展に出品したらまぐれで入選してしまったのです。多分、無知なる人間の作るものなので新鮮に映ったのでしょう。戦後10年、まだ混乱が治まってはおりませんでした。当時は平入選でも新聞に名前がでました。今から思えば笑止千万ですが、すっかり作家きどりでした。おそらく残る幾ばくかの人生の中で、これ以上の作家感を持ち得ることはないでしょう。しかし、新聞に登場した篠田守夫(本名)という4文字がその後の私の人生を狂わせてしまったのです。生み出す苦痛、しかし生んだ直後の短い快楽、いや、誠に短い快楽!このリズムは今でも代わりません。それどころか、繰り返していることによって快楽への期待から苦痛を容認しているのか、永遠の苦痛を求めているのか定かでなくなってくるのです。これはマゾヒズムの境地に近いでしょう。
昨年13年ぶりに横浜で個展を開催しました。この13年の無制作と重い思考の重圧から逃れたのが昨年の個展でした。それから半年、何かからの逃避ではなかったのか。
冒頭に記述したごとく作家感という大きな風船はどんどん萎んでおります。80を越えそのスピードは度を増しております。いっそのこと風船がなくなってしまったらいいのに。とも考えます。ところが煩悩が邪魔してなかなか難しいのです。この度の個展はそれを払拭する実験その1となります。
私は1958年から昨年の個展まで54年間テンションとコンプレッションという構造で作品を作り続けてまいりました。これは無知な素人彫刻家が世に受け入れてもらう最大の手段でした。私は図書館にかよい美術館を巡り彫刻とは何か、とめどもなく見て歩きました。その結果、結論をえたのはその殆んどが地球の重力を当然のこととして容認するか無視するか、でした。そこで私としては『重力』は『あるんだぞ』というとるに足らないテーマに取り憑かれてしまったのです。『在る』ということを調べるためには『無い』ということを調べたらいい。一般的にはこの作品はなんで『浮いて』いるんだろうという疑問が私を得意にさせました。
そしてこの私をして得意にさせた『重力』への感謝の意味からもこの度の個展はなりたっています。従って個展のタイトルは篠田守男『重力の恩寵』となっております。以上お含みの上御覧頂けると幸いと存じます。そして狭いながらもシノダ・ワールドに踏み入ってくださったことと、この世界を共有出来る喜びとともに筆を置きます。
篠田守男
2021年11月9日 朝日新聞夕刊アート面掲載