Contemporary Art

極小美術館

2008.11/30(sun)~ 2008.12/7(sun)

Art Exhibition

    主 催
    飛騨高山現代美術展実行委員会
    企画・後援
    極小美術館開設準備室(当時)、POCOLOCOアートスクール
    会 場
    ■画廊空間(ギャラリー『遊朴館』)
    【TEL】0577-32-8883(10:00~17:00・高山市一之町26 えび坂
    ※12月3日(水)は休廊
    ■里山フィールド
    【TEL】0577-72-3895(10:00~日没・高山市国府町名張596)
    オープニングパーティ
    2008年11月30日(日)会場・ギャラリー『遊朴館』
    シンポジウム(会場・ギャラリー『遊朴館』)
    【パネリスト】
    篠田 守男(筑波大名誉教授・金沢美工芸大大学院教授)
    青木 正弘(前豊田市美術館副館長) 他

飛驒高山現代美術展に思う

篠田守男 (彫刻家、金沢美術工芸大大学院教授)  

里山が培う自由な美

 1990年を挟んで名古屋は日本の現代美術をけん引した時期があった。きら星のごとくコンテンポラリーを扱う画廊がひしめき、それを支えるコレクターが群がり、公立美術館の開館とも相まって質の高い展覧会が次々と開かれた。
 単なる画廊空間に飽き足らず、街の中心部より少し北に外れた工場の一角に、美術館スケールの企画力によるアートシーンを実現させたり、横須賀の軍港近くに巨大な倉庫兼美術空間を設置したのもこの時期だったと記憶している。
 これらの活動が東京・六本木の森美術館や、荒川修作の養老天命反転地につながっていくのだが、なぜこの地にこのようなエネルギーと集約力が発生したのか不可解で仕方がなかった。
 そんな有力老舗ギャラリーの桜画廊で、前期、後期と2回続けて個展を開催した。オーナーの藤田八栄子さんは洞戸村(現関市)の出身で、当時70歳を超えておられたが、かくしゃくとしていた。作家を見つめる目は厳しさと愛情にあふれ、多くの美術家が育っていった。
 飛驒高山へ向かう列車の窓から、この緑深い自然豊かな風土で育った藤田さんが、時代の最先端の芸術である『現代美術』にこだわり続けたのは何であったのかと自問自答していた。
 そういえばこの春まで豊田市美術館の企画に携わり、「世界の豊田」とまでいわしめ、欧米での評価の高い前副館長の青木正弘さんも岐阜市郊外に居をかまえており、何か共通項があるのかとも思った。
 宮川沿いの国道から一本逸(そ)れた旧道を行くと里山フィールドの会場が現れた。冷たい小雨が降る中に弓削陽子の作品「あいのたね」があった。籾殻(もみがら)を円すい状に固め、その上部の煙突からは煙が一筋たなびく。西洋からの輸入物ではない確かなコンセプトが感じられた。籾殻の中には黒陶が仕込まれているが、遠くから見える流動的な美しさと、里山全体にまで香るインスタレーションはデュシャンを超えていると思った。
 平野泰彦の乗鞍岳をも取り込んだ木野作品、小澤義久の南方を見つめる猿のいすも思考の明確さが伝わってきた。
 画廊空間では佐々木克司の風刺画がサブカルチャーではあるけれども他の美術館にはない新鮮さがあり、三井園子の布のオブジェも自由奔放(ほんぽう)さが光っていた。
 今回の展覧会は作家自らの手による企画展であったが、里山から刺激を受けての仕事に魅力あふれる作品が多く見られた。
 古墳時代から続く飛驒の里山で、現代美術がこうまで生き生きと存在することに美術の本質を見る気がしたし、大自然の営みの中にコンテンポラリーのエレメントが脈々とつながっているのだとあらためて感じた。

飛騨高山現代美術展に寄せて

長澤知明 (彫刻家)

表現の真理と叡知 復活の機会に

 北に向かって流れる宮川に寄り添うように高山本線と国道41号が交差する中、名張橋を渡った左側山手に造形作家・弓削義隆の仕事場(飛騨市国府町名張)がある。住居も兼ねるこのアトリエで陶芸の窯を持つ妻・陽子と三十年余り制作活動をしてきた。二人とも九州の出身であるが、旅の途中で訪れた飛騨の魅力にひかれて終(つい)の住処(すみか)とした。
 遠くに乗鞍岳を望むこの地は、地形に沿って小川が流れ、牧草地、畑、畦(あぜ)道が続く自然と人間が共存している里山でもあった。
 十数年前、カッセルのドクメンタ、ミュンスターの現代美術展、ベネチアのビエンナーレが偶然にも重なった年があった。ミュンスターはドイツ北西部にある小さな都市だが、塁壁と堀は緑地や散歩道と繋(つな)がり、小さな森を抜けると彫刻に出合えたり、何でもない街角にアートシーンが織り込まれ、無理のない展示方法と気負いのない運営が強く印象に残った。
 ベネチアビエンナーレも従来からの会場であるジャルディーニ公園より北側の、旧造船所やベネチア本島の街中にアートを出現させ、単なる野外展とか公園という閉ざされた空間から開放されようとしていた。
 三年前に高山市内の画廊で開催された展覧会を契機に、芸術家自身の手による企画展「飛騨高山現代美術展」を立ち上げることができないかを考えるようになった。
 アメリカニズムの終焉(しゅうえん)と世界不況が伝えられる中、我々も決して無縁ではなく、現に現代美術を扱う東京の老舗画廊は息も絶え絶えであるし、加えて少子化による教育スケールの縮小は作家の経済状態を圧迫しているのも事実だ。
 アニメ系フィギュア彫刻がニューヨークのオークションで高値を付けたり、出口が見えないまま全国に次々と新設される芸術系大学の理不尽さなど、この混沌(こんとん)とする状況の今こそ、表現の真理と叡知(えいち)を取り戻す絶好の好機と捉(とら)え、企画を進めてきた。
 テーマを「里山と現代美術」としたのは、この飛騨の大自然と美術作品がどのように対峙(たいじ)、拮抗(きっこう)したり、あるいは同化、対話できるかであり、立体作品は風雨に晒(さら)されながら洗礼を受けることになる。平面作品は高山市内の画廊空間での発表になるが全国から俊英が集まった。
 表現者である我々が「今」という時代性に裏付けられた精神の解放をこの飛騨の大地に根付かせ、弓削夫妻が魅せられたという磁場を改めて感じたいと思っている。
(文中敬称略)